平成10年11月9日、當宮参道入口(鳥居下)の石段登り口の角柱に彫刻された内務省地理寮水準点(高低几号標)が、【 横浜市地域史跡文化財 】として登録されました。
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明治維新以来日本が近代国家となって行く上で、鉄道・道路・港湾・市街の建設等で測地事業は欠くことの
できない事業であった。内務省地理局は、明治7年(1874)1月内務省に地理寮(後に地理局となる)を
設置して以来、「お雇い外国人」の指導の下、集中的に開港五港(横浜・神戸・新潟・函館・長崎)や
東京・大阪・京都などの主要都市の市街図作成に力を注ぎ、明治17年(1884)以降に参謀本部陸地測量部に
移管するまで測地事業を担当した。
横浜では、明治7〜8年(1874〜5)に地図作成の骨格となる三角測量及び水準測量が行われ、明治14年(1881)に
実測図が刊行された。
横浜は、近代測量による地図(1/5,000)が完成した最初の開港地であった。この時の水準点が
内務省地理寮水準点(高低几号標)である。内務卿(内務大臣)から布達状が出されており、これには
「内務省で設置した水準点に
「」の記号(几号)を不朽物などに彫刻して標識として
活用するように、また、適当な
ものが無い場合には、標識(石標)を埋定し、標識に
「」の記号を付すこと」とした。
「中村八幡宮」の内務省地理寮水準点は、参道入口にある石階段の登り口に角柱に
彫刻されており、当時の地図と比較して位置が動いていないものと思われる。
横浜において内務省地理寮水準点が何カ所設置されたかは不明。
現在、「中村八幡宮」の他に、「伊勢山皇大神宮旧鳥居台座」(西区宮崎町)、「妙香
寺題目塔台座」(中区妙香寺台)、「日枝神社旧稲荷社鳥居」(南区山王町)、「庚申塔
台座」(南区山谷)の四カ所で発見されているが、何れも当初の位置にはない。
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フリーライター中西隆紀氏(横浜市青葉区在住)は、明治期に設置された水準点を探
索する「明治水準点の会」を主宰。中西さんらは、この水準点のマークを「明治水準点」
と名付け、東京市街地をはじめ各所を調査している。
中西さんによると、明治期の地図測量には内務省のイギリス式と陸軍のドイツ式の二
つの流れがあり、既存の建造物に印を刻むイギリス式に対し、水準標石を埋没するド
イツ式。時代の流れで軍部が台頭、1884(明治17)年、地図行政は軍採用のドイツ式
に代わられ、イギリス式が衰退した。軍部により抹殺され、それ以後、この水準点は
忘れられてしまったのである。
英国では、現在においてもこれが正式の水準点マークであり、日本においては初の
水準点マークであったにもかかわらず、現在、日本ではまったく使用されていない。
水準点マークは横棒が9cm、足の長さが10cm。当初、明治水準点は東京では150カ所
近く設定されたらしいが、現在では発見が難しい。東京都内では、墨田区の江戸東京
博物館内の「迷子しるべ石」(但し複製)、お茶の水のニコライ堂わき、靖国神社の大
灯ろう台座、桜田門の城門石垣など29カ所で、横浜市内では、「中村八幡宮」含め5
カ所でその確認ができただけである。
中西さんは、「このまま忘れられてしまうのは残念。多くが不明になっている中、残
されたものは文化財として保管してほしい」と横浜市では教育委員会に働きかけ、発
見された水準点マークが横浜市地域史跡文化財として登録された。
平成12年11月初旬に當宮を訪れた中西さんによると、「中村八幡宮」では、水準点
マークが、参道入口(鳥居手前)にある石階段の登り口の左角柱に彫刻され、水準基標
(Bench Mark)が、石段下右側に埋定されており、この水準基標に「BM」(Bench Mark)
の刻印がある。そして、当時の地図と比較して位置が動いていないものと思われるので、
これは発見された中でもめずらしい形で残っているとの事である。
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